フィクションライフ

小説を読んでいると、描かれている舞台となった場所に旅したくなる。

いま一番わたしを駆り立てている場所はニューヨークとプラハだ。

アメリカ文学をやっているからといって、常に「日本」と対比させて考える必要はない。 なぜなら読者(あるいは研究者)は、常にコスモポリタンなのだから。

もちろん、アイデンティティの大半は日本という土地や日本人という人たちに囲まれて育ったこと、親などの影響を受けて成り立っていることは事実だけれど、わたしが言いたいのは常にそこをベースに考える必要もないんじゃないか、ということだ。

日本人とは何か、ということについて、日本人は良く考える。

アメリカ人もアメリカ人とは何か、について過去にすごく考えていた時代があった。
そしてもちろん、イギリスやヨーロッパなどと比較をして、自分たちのアイデンティティを見つめなおしていったのだ。

選挙戦があんなにアメリカ国旗にあふれているのだって、そのときにアメリカとはなにか、自分たちはなんなのか、と考え込んだ時代があったおかげだと言える。

NHKの大河ドラマで「平清盛」をやっているけれど、そこまで過去にさかのぼろうとしているのも、われわれのアイデンティティはどこからきたのか、ということへの郷愁が製作者の意図するところなのでは、と思う。 (視聴率が低いのはさておき)


話をもどすと、ニューヨークとプラハは接点がないようでもちろんつながっている。
今日は予習をしながらいろいろ調べものをしていたら、ケルン(ドイツ)にたどり着いたり、時代は紀元前までさかのぼったりした。


日本人であることは間違いようのない事実であるが、どんな誰であっても、本を読んで考えることはそこから少しだけ離れて、本の世界に入り込んでいく、あるいは外から眺めることではないかと思う。

だからその「本を読んで考える」という行動自体は、国籍を限定しないし、最初から「グローバル」なのだ。 あえて、グローバルと言うのであれば。

グローバル、という言葉の使い方として、海外にいくことや、外国人と接することや、その頻度を高めることとしてのみ切り出されているように感じるけれど、本当はそうじゃない。
逆にそれは「日本人」であることを強く意識することになる。そうではなく、Universalな考え方というのは、一人の人間がどんなふうに考え、その言葉を発するのか、ということをUniversalに理解することに他ならない。

昨日、パスポートを更新しに行ったとき、40分ほど待たされた。
多くの人が様々な目的と理由で海外に行こうとしている。 
人は旅行をすることで、あらゆる意味でUniversalに1歩近づことができ、旅行はフィクションとノンフィクションをつなげる。

あちら側とこちら側を。
[PR]
by MySakuranbo | 2012-01-11 13:54 | 日々の出来事 | Comments(0)

毎日が新発見


by me
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31