英語の精読

最近ある文章を読んでいて、「大学の文学部に大量の女子学生がなだれ込んだことで大衆化し質が低下した」というような文章に出会った。出典はあえて言わない。
ものすごく反論したかったのだけれど、まぁ、客観的な事実として女子大学生が増えたことは事実なのである。それを「大衆化」につなげるところにこの文章の恣意的なものを感じるのだが。

ちょうどその本を読んでいたところに、今日たまたまこの本も読んだ。
(今は5~6冊の本を読みかけなので、こんな風にランダムにすすむ)

英語を学ぶ大学生と教える教師に―これでいいのか?英語教育と文学研究

渡辺 利雄 / 研究社



渡辺利雄先生はあまりにも有名な英文学の先生なので畏れ多く読んでいるのだけれど、身につまされることが多い内容。
先生の主張(英文読解は辞書をしっかり用いて語句のひとつひとつを丹念に調べ上げ「精読」することからはじまるので、むかしに戻れ)には少しの反論もないけれど、なんというか、先生たちが生まれて、勉強してきた頃(1950年代)とはやっぱり今は違うと思うのだ。

強いて言うのであれば、精読プラスアルファが求められてしまっていて、プラスアルファを捻出するために、精読の時間がカットされてしまうことは致し方ないのではないのではないか。
また、英文学の研究家になることの意味や目的が1960年と2012年では全然ちがうと思う。

英語がある一部の特権階級のものだった時代はとっくに終わっている。また、英語はあるときから芸術じゃなくて、実用品になってしまった。
これはアメリカであっても、日本であっても。
この前に識字率の話を書いたと思うけれど、アメリカでは率先してNew York Timesを読む層とUSA Todayを読む層と今だに文化意識も違うし、大袈裟に言えば、年収だってちがう。

International Englishとしては実用品なのだ。
でも、わたしのように英文科的研究をこれからもやりたいと思う人は、
芸術英語により焦点をあてたいので、渡辺先生が言わんとされることはうなづける。
でも、だからといって日本の英文科すべてに「精読せよ」というのは難しいことではないかと思うのだ。

この本が書かれたのは2001年。
もうそれから11年も経っているので、違和感、というか、当時先生が思われたような状況からはさらに遠ざかってしまっていると思う。
実用英語(いわゆるビジネス英語)と芸術英語がどのように共存させていくか、が、これからは問われていくんじゃないかと思う。

英語そのものにArtを見出すのか、英語をToolとして使うのか。

大衆化した文学部において、昔を録り戻すのは無理だろうと思う。
変革というのは、すこしずつ良いものを集めて新しいものに変えていくことだ。
両者の良いところをあつめてReformしていくことの責任はきっとこれからの研究者であり指導者の役割なんだろうと思う。

わたしは今は丹念に精読するほうをやっている。
だからやってもやってもきりがない。
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by MySakuranbo | 2012-01-29 20:19 | 趣味のアメリカ | Comments(0)

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