言葉と教育と社会と大学

メルボルン旅行記、長いですか? 
そろそろ辞めますか?(笑)

こうやって書いているといくらでも書けてしまうので、そろそろ終わりにしよう
かな、なんて思っています。 旅行記も、旅案内というより、旅独白みたいな
風体になってきていますが、こんなのでよければいくらでも書きます。
でも、今日はちょっと「言葉」について最近わたしが考えていることを書くことにします。
長いので、まぁ、ゆったりと読んでくれるとうれしいです。

◇◆◇

最近書きたいことがかけるようになってきた気がするのは、本を沢山読んで
いるからに違いないと思っている。人間の言語能力をあげるには、絶対に
読むことが必要だ。 自分の考えを伝えるにも、言葉を運ぶ能力もいるけれど、
「どの言葉を」「どのタイミングで」「組み立てる」ことができるか、が分かれ目
だ。 

教育(というより、自らの知識欲とでもいおうか)が、読ませることから、
器用になることを教えるようになったら、さらにこの力は衰えることが
目に見えている。

言葉で言うことができないから、暴力になる。
言葉がみつからないから、無言になる。
言葉を選ぶことができないから、口論になる。
言葉の力を知らないから、自分の力がないと勘違いしている。

など、あげればきりがないが、女性の社会での活躍ということを
ライフワークのすべての根幹にあげているわたしとすれば、女性の言葉の
選び方が、まだ男性のそれとは違うことにあると思っている。

それを、女性は論理的ではない、という言葉で片づけてしまうのは
おそらく男性というか、そういう発言をする社会が、知らぬ間に備えていた
歴史的な言語習得の結末なのではないか、という気もする。

女に学問などいらぬ、という古い考えが変わりつつある(まだ途上)のは
この10年ほどのことで、そんなに新しくはない。女性の大学進学率が10%を超えたのだって、わたしが生まれてからあとのことだ。 現在はその数値もようやく5割に近づきつつある。もっとも短大の進学率を合計すると、女性と男性の割合はほぼ同じだったので、女性は当時はそういう選択もしていたことになる。
現在は短大という存在は瀕死の重傷、あるいは絶滅危惧種だ。
短大卒という言葉の意味が変わってしまっている。 この資料をみるとその意味がわかってもらえると思う。

でも、わたしが一番思うのは、大学というところが何をする場所なのか、ということを
学生はいまひとつわかってないし、ビジネス社会も大きな誤解をしていて、それが社会全体の危機なのではないか、と考えていることなのだ。

大学は理系でも文系でも「多くの本を読む」ところだ。
それで、理系では得た知識から仮説をたて、実験という実証をしながら自らの結論を導き出す。 また、文系では、得た知識から仮説をたて(ここまでは理系も文系も一緒)、量的、質的リサーチという実証をするのがひとつ。 またもうひとつは言葉や文化的背景という歴史や芸術というものに分け入ってみたり、哲学や宗教的観点や言葉そのものに身を沈め、自らのフィルターを通して、客観的に文学だったり哲学だったりというものを濾過していく。そういうことがわかってきた。

そんなことは当たり前なのかもしれないけれど、わたしには少なくとも大学に入る前は誰もこんなことを言っている人はいなかったし、言ってくれる人もいなかったし、もちろん身近な親は大学とは縁のない生き方をした人だし、大学というところの意義なんて、本当に、交友関係を広げ、就職のための肩書をつくるところだとついこの前まで信じていた。

海外の俳優たちの経歴をよく見るのだけど、彼らはかなりの確率で大学を卒業している。そういう人が俳優をやるのが、ある意味当たり前なのかもしれないし、大学で学んだことがなければ、俳優として成功しないのかもしれない。 これを素直にそのまま芸術関係の学部の少ない日本と比べてはいけないとは思うが、この状況をシンプルに受け入れるのであれば、大学でやる意味があることがそこに存在しているから、ということになる。

交友関係を広げる場所でもなく、就職のための肩書でもない、という場所だ。
先生が憂いていたことに、勉強などしない、という大学が相当数あるらしい。 宿題などないし、出席していればよい、とか、あるいは期末の試験だけなんとか受ければよいなど、現状は様々である。 そういう大学に限って、就職率を気にするのだと思う。

大袈裟に言えば、大学のときに「死ぬほど勉強する」「死ぬほど本を読む」ということを
しないで社会に行くと、死ぬほど仕事をする人にはそう簡単にはなれない。
(もちろん「死ぬほど」というのは比喩です。)

会社が新入社員に器用さを求めてしまっては、本気で集中して何かをやる人間には
なれないと思うのだ。 コンビニで働いた経験や、インターンシップで1,2か月どこかの
会社でコピー取りをした経験なんか、入社してから1週間もあれば叩き込めることだ。
それよりも、大学の勉強なり、本なりに、どこまで真剣に取り組んでいて、何を見出した
のか、ということのほうが、企業の利益になるとなぜ考えないのだろう。

人材、というのは今日、明日簡単に育つものではない。 長い目が必要だ。
終身雇用の唯一の利点は、そういう長い目で人材を育てることができる環境がある
ことのみで、能力を数値化して横並びにしたら、そんなものは最初から破綻してしまう。

話を最初に戻すと、言いたいことが言えて、書きたいことがかける、という原始的な
能力こそ、大学卒業までに備えていて欲しいことではないのか、ということだ。
残念なことに、世代間の差も大きい。 胸に手をあてて自分が大学にいた時代、
どれだけ本を読まされたか、考えてみればわかる。 ある人は社会人になってから、
文章の大切さに気づき、読書をこよなく愛すようになった人もいるだろう。
そういう努力(趣味にせよ)は、会社の外で自らの力を高めている完全なる自己啓発
になっている。 英語を勉強するだけが自己啓発ではない。 そうではない限り
圧倒的に低い言語能力をそのまま引きずり、勘と経験だけで器用に仕事をする人に
なる。

実際にわたしもそうだった。
知識偏重を忌み嫌い、経験こそが企業の実態であって、経験こそが企業を成長
させると、300%ぐらいの確信をもっていた。 

しかし、どのような経験でも、あるときそれを言葉にして伝えるときがくる。
プレゼンテーションでも、社内発表でも、報告書でも、会議でもなんでもいい。
さらに、発表に対しての、質問や反論というものもでてくる。 それらについて、
意見を返すことや、新たな提案にもっていく能力は、経験だけでは少し足りない。

どんなに自分の仕事で成果があろうが、そこに真実味や実証性、再現性について
相手を説き伏せることができるかどうかに、ホワイトカラーでありえるかどうかが
かかっているのではないか。

だから、働く女性によく言うのは、仕事ができればそれでいい、という考え方ではなく
それをどう相手に伝えきるか、ということのほうにむしろ価値を見出してほしいと
いうことなのだ。

言葉の選び方、使い方、陳腐ないいかたをすればTPOに、タイミングという時を
重ねていく。 むろん、タイミングの取り方は経験でしか学習できない。

わたしが仕事で苦労はあったものの、それなりに管理職でやってこれた最大の理由は、わたしの仕事が経理だったからだと、最近よく思う。対象が数字なので、数字を見せることで、100%ではなくても8割は相手に内容を伝えることができる。
言葉の欠陥(欠陥といってもよいだろう)を補うために、そのテクニックは相当に
磨かれた。 どう数字を見せたら、相手が納得するか、は徹底的に研究をした。

しかし、英語でも日本語でも言いたいこと、言うべきことを伝えきったか、というと
決してそうではなかったと思う。 だから理不尽な相手が常に周りに存在していたし
どうも苦労しているような気がしたからだ。 もちろん相当変な人もいたが、自分の
言いたいことが伝えられない、という事実は常に付きまとっていた。

英語のレベルが低いから伝えられないのだろう、と理由づけをし、英語力を磨くため、自分なりにいろいろやってきた。 だが、実際にはおそらく日本語の能力の欠落にあったのだと今となっては思っている。 そして今は、その英語と日本語の両方のパワーが同じ勢いで増していることを実感している。 

文学部は全体的に今は人気のない学部になりつつある。
しかし、ここでしかできないことは、その「言葉」の重要性を「言葉で伝える」ことが
できることではないか。 わたしはそれを英語と日本語とアメリカという
3本の柱で紡いでいこうと思っているのだ。

まだまだわたし自身も変な言葉を使うし、このブログでもしっかり
伝わっているのかわからない。 だが、少なくとも数年前の記事と比較した場合、
コンテンツの「コンテンツ」が変わっていることは確かだ。
長らくごひいきにされている読者の方は、前のほうがよかった、と思うかも
しれないけれど、これがわたしなりの成長だし進化の過程なのである。

そして、その進行形の変化にわたし自身は喜びを感じている。
[PR]
by MySakuranbo | 2012-03-29 21:59 | 日々の出来事 | Comments(0)

毎日が新発見


by me
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30