日本人に生まれて

花見真っ盛り、のようである。
花は見るけれど、花見会のようなことをしたこともなければ、しようと
思ったこともないので、桜の花だけを特別に取り上げて、その木の
下で飲み食いをするのか、不思議なことだ。

こういうこと書くと、日本人にあるまじき!と思われるかもしれない。
ピクニックなんだろうなぁ、あれは。 土日の天気の良い日に
テラスに出てご飯を食べたくなるのはよくわかるので、そういう季節
がやってきた、ということへの歓喜の宴で、その象徴としてみごとに
桜が抜擢されたのかもしれない。

としくんと一緒に公園にロビンの散歩に行ったら、公園に数本ある
桜の木の下で宴会をしている一団がいて、皆で歌を歌っていた。
その歌というのが「月の沙漠」だった。
いったいどうして朗らかな春の陽射しと桜の木の下で「月の沙漠」を
歌わねばならないのか。

ぜんぜんわからない。







ここから先は読みたい人だけどうぞ。

最近としくんと1日2時間ほど会話をする以外は会話をしないので、
日本語のヒアリング能力が落ちてきている。

特にTVで早口でしゃべられると

ばしゃばしゃばしゃ

っと聞こえて、神経を集中しないと何を言っているのかわからない。

耳が英語になりすぎている結果で、海外から帰ってきたときと同じ状態
になっているのに気付いた。

こんな調子だから公園で月の沙漠の歌を聴いたときも、お経のようにしか
聞こえなかったんだよね。何の歌かわかったところで、花見と月の沙漠の接点は
ぜんぜんわからないままだけど。

こんなふうに文化全体を敬ったり、親しんだり、愛でたりしなければいけないような
雰囲気にあるのは、日本人的な愛国心からくるものだと思う。 だから、目に見える
ものは象徴でしかなくて、(たとえば国旗なども)、象徴を敬う前に、まずは
全体的な文化構築を理解していることが必要になるんだろう。

桜の下で楽しいと思うのも、「桜」への全体的な文化的背景があるからこそ
社員総出で陣取り合戦をしたり、寒いくせに花の下で飲んだりということの
連帯感を楽しめるのだ。 この「全体的」というのが、個々人の感性
ではなくて、どうも世の中的にはこうだ、という前提や前例があるから、
ある人が「ハナミズキ」の下で花見をしよう、と言い出したとしたら、

なんで?

ってなるに違いない。

18歳ぐらいからずっと心を日本に置いてこなかったわたしからみると
(海外かぶれと言われるのは承知で)、皆が一斉に桜を見てマスコミも夜中まで
報道して、全国の桜ツアーなんかもあったりして、家具屋の折込チラシにまで桜色
のクッションが宣伝されてたりすると、その全体さ加減に時折、不気味さを感じるのである。

そんなことを言っても、あの人日本人なのにどうかしてる、と思う人が
この世界にはたくさんいて、「日本人なのに」という前提がどこからくるのか
考えだすと、それは宗教なのかもしれないし、文学や哲学という芸術なのかもしれないと思うのだ。

だからこそ、英語の世界に深く入っていけばいくほど、わたしのような人が客観的に
日本という場所と英語圏文化(アメリカが主だけれど)を見て、何かを感じることって、意味のあることなのかな、と思う。 外国人にもこんな考え方を単なる国民性という言葉に片づけることなく、こういうポリティカルなものが存在すると知ってほしいし、英語を勉強している日本人にとっても、自分たちのことを新しい視点で見ることができるようになるはずだ。 

文学は入口にすぎないけれど、この扉のむこうにずいぶんと大きな
世界が待っているようで、それがわたしを虜にしている理由でもある。
どんなにしゃべらなくても、日本語を忘れることは決してないし、自分は桜に対して
さしたる感慨もないけれど、そういう人たちが日本には大勢いるということは
まったくわからないわけではない。 

それが、日本人に生まれたということの証なのだ。
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by MySakuranbo | 2012-04-08 16:10 | 日々の出来事 | Comments(0)

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