贖罪のバルコニー

このところベランダの植物に愛情を注いでいる。
そればかりか、部屋の中のグリーンたち(No.1から5までいる)にもいつも以上に目をかけている。


そういうことにふと気づいたのが今朝のことだ。


冬の間、やる気があるのかないのかわからないままたまに咲いたり、葉を萎れさせたりしていたゼラニュームだって、爛々と咲いている。 それを見て、もっと咲かせてあげようと、置き肥を数粒プランタに投げ込んでみた。

こちらに引っ越してきてたった1度だけしか花をさかせなかったクレマチス(幻のクレマチス)もひょっとしたら今年は咲く気があるのかもしれないと、液肥を週1回施すようになった。

花殻をひろってやったり、雑草をむしってやったり、肥料を放り投げるということが私の定義する「愛情を注ぐ」ということなのだ。

何かに(誰かにでもいい)、自分の愛情を施すということは、その行為そのものにも生命の活力的な意義があるとは思うが、実際には施しを通して、自分が救済される、というような意味あいのほうが強いのではないかと思う。

わたしはキリスト教徒ではないが、キリスト教には自らが救済される (redemption という)ために、生きるという考え方がある。 人は生まれながらにして罪人(つみびと)であり、その罪を贖う(あがなう)ことが必要なのだ、ということがキリスト教の(大方の)教義と理解している。 ユダヤ教にはこの生まれながらにしての罪人という概念はない。 これらの罪のことを「原罪」と呼ぶ。

土着的日本人にとって、ふつうの非キリスト教系幼稚園、学校を経由して日本で暮らしている場合、この、生まれながらにして罪人ということへの解釈は非常にわかりにくい。

原罪ってなんだ。
償う(つぐなう)、贖う(あがなう)ってなんだ。

そういうものを少しずつ理解しようと、今大学で勉強しているわけだが、もし私がそれは何かを誰かに教える機会があるのであれば、ひとつにはガーデニングというキーワードで説明ができると思う。

キリスト教でgardenと言うと、もちろん庭という意味もあるが、あの「エデンの園」を彷彿とさせるからだ。 とはいえ、ガーデニングがイギリスで盛んになった背景には、人々が花々を愛でるという情緒的なものから発生したわけではない。

キリスト教的な発想では、自然はすべて脅威であった。
自然は管理し、統治し、支配するもの、という位置づけだったのである。
荒れ狂う雑木たちに刻みをいれ、生垣にしたてていったことですら、自然を管理したかったからで、「生垣の美」が当初からあったわけではないのだ。

しかし、現在ではガーデニングは人の心を癒し、花を育てるという安らぎ、嗅ぐ、見る、触るという五感を通しての命の息吹に、まるで自分のエネルギーが共鳴しているかのような感覚に誘われるのは万国に共通のはずである。 もはや、自然を支配する、という考え方も遠い過去のものである。



そして我が家のバルコニーに目をやってみる。
空は青く澄んでいて、洗濯物がたなびいている。 初夏の陽射しを薄いベールのカーテンが柔らかく遮り、家と外とを隔てている。ゼラニュームには数粒の置き肥が放り込まれている。

それはここからは見ることができない。
その白い粒たちはひそやかなわたしの分身なのだ。 


罪人たちはそのようにして、静かに贖われていく。
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Commented by Kei_pmpark at 2012-05-28 11:03
ちょうど我が家のバラの様子をUPしたので、タイムリーだなぁと興味深く拝読しました。

私にとってのガーデニングは、自己達成感かな。
そこに小さな人生の縮図というと大仰ですが、そういうものを投影している部分もあります。

畑をやっている母の話を聞いていても、すべてを完璧にそろえたと思っても、天候・土などで出来あいが変わってくる。
なにくそと思いながら、年々少しずつ工夫をして成果を得る。

不条理な状況に耐え、しのぎながら得る幸せ(野菜だったり、花のこぼれる庭だったり)

うちのバラは道側にあるので、「どーだー、頑張って咲かせたぞい」というワタシの自己顕示欲の一つでもあろうかと思います(笑)
Commented by MySakuranbo at 2012-05-29 00:35
◆keiさん なるほど、庭とワタシにはいろいろな形があるんですね、おもしろいです。特に「不条理な状況に耐えしのぎながら」というところが、興味深いクダリでした。
そういう視点でガーデニングをしている人と話をしたり、ブログを読んだりするのも一興です^^
by MySakuranbo | 2012-05-28 10:08 | 日々の出来事 | Comments(2)

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