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ぎりぎりに宿題をやることの本質

ひさしぶりに大学の課題に追われる日となってしまった。
わたしとしては、ギリギリに何かをやる、ということは不本意なことだ。できればそのような事態にしたくはないので、あらかじめ綿密にスケジュールをたてるか、そうでなくとも早めに物事に取り掛かり締切よりも随分前に余裕をもって終わらせる、ということを常にしてきた。これは仕事をしていた時代でも一緒である。

もっと言うと、子供のころの夏休みの宿題もそうだった。 7月20日ごろから夏休みが始まったが、7月中にほとんどの宿題を済ませてしまい、8月は自由に自分の好きな勉強なり、読書なりをしていた。色々な人の話を聞いていると、子供のころから宿題はぎりぎりにやっていた、という人は、仕事も締切ギリギリまで放置しておくタイプが多いようなので、これは三つ子の魂のひとつだと思っている。

要するに、好きなことを先にやるか、嫌なことや面倒なことを先にやるか、という決定権の問題だ。自分の場合を考えてみると、母親が無責任に教育熱心だったので、そういう決定権がわたしにはなかった、と言える。

「宿題をやりなさい」は親のセリフのひとつだと思うが、それは結果として、自分の好きなことは後回しにしなさい、ということを意味しているのだから、そういう本質を子供と話すことが1度くらいあってもいいように思う。 わたしは子育てをしていないし、することもないので、あくまでも自分の子供時代を考えて言っているだけだが。

親の権限は絶対である、ということについては異論はないし、むしろ賛成派。最近はなんでも子供と相談し、子供の意見を尊重し、みたいな風潮があるが、そこをはきちがえてはいけないのは、まず、親の絶対性を本質的に認めさせることが第一だと思う。 そのうえで、個別の事柄については、その都度時にはよくわかるように説明も必要になるだろう、ってことだ。

わたしも親子の関係には結構悩んだほうだし、今でも母の偉大なる権力に潜在的にひれ伏すような行動をとっていることに気づくこともある。でも、昔ほどではなくなった。自分が母にならなくても、母のことはわかるようになるものだ。むしろ、私が仕事でも勉強でも「前もって準備する」ことが抵抗なくできていることは、そのような(無関心な)教育のおかげだと思うので、個々には感謝しなければならない。

無関心な教育熱心についてはまたいずれどこかで書きたいと思う。


前置きがすごく長くなったが、というような状況があったなかで、明日提出しなければいけない課題を今日やっていた、という状況になったわけだ。ひとことで言えば、現実逃避である。毎日のように就活のために面接やら電話での進捗報告やらをしていると、大学の勉強のことを考えることが少々苦痛なのだ。


かたや、時は金なりと物凄いスピードで動いている世界があり、
かたや、静かに文字に心を沈めて、浮かび上がるイマジネーションを形にしていく、
という相反する世界が混在している。アーチストがTV番組に出まくると、芸術性がなくなっていくのとちょっと似ているのかもしれない。

英語の勉強はアメリカ文学を読み続け、感じたことを形にしていくことはライフワークなのだから、うまく付き合う方法を見つけねばならない、と思っている。結論はもうすでに出ていて、どう考えても朝の時間帯しかありない。 仕事をしたあとでは、絶対にアカデミックモードにはならない。

村上春樹と小澤 征爾の対談本を最近読んでいて、課題の合間なので、毎日数ページしか進んでいないのが残念なくらいなのだが、そこにも小澤 征爾も楽譜を読み込むときは朝だと書いてあり、非常に納得した。

小澤征爾さんと、音楽について話をする

小澤 征爾 / 新潮社



好きなことをやるには、朝早く起きるのがいいのだ。
「好きなことをやりたいなら、朝早くおきなさい」という教育方針だったら、きっと私はいまごろまったく別の人生を歩んでいただろうな、と思う。

あと課題は1時間分ぐらい残っているが、続きは明日の朝やることにした。
by MySakuranbo | 2012-06-13 19:48 | 日々の出来事 | Comments(0)

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